松山城(まつやまじょう)
所 在 地 橋本市みゆき台 標 高 308m 比 高 120m 築 城 者 松山新助 築 城 年 天正10年(1582) 形 式 丘城 遺 構 曲輪、土塁、空堀 登城時間 20分
歴 史織田信長は、高野山に対して荒木村重の旧臣の引き渡しや、佐久間信盛の遺品の引き渡しを求めたが、高野山側がこれを拒み、信長の使者を殺害したことから対立が深まった。これに対し信長は、高野聖を数百人捕らえて処刑するなど、高野山への攻撃姿勢を強めたという。天正10年(1582)、信長は高野山を攻めるため、配下の松山新介を派遣し、在地領主である生地氏や贄川氏に対して、織田方に属するよう命じた。 松山新介は菖蒲谷に城を築き、九度山方面へ昼夜を問わず出撃したという。しかし、同年6月に本能寺の変が起こり、信長が討たれたことで、高野山攻めも終息することとなった。 なお、松山新介は、三好長慶や松永久秀に仕え、各地の戦いで戦功を上げた三好氏の有力家臣の一人であった。 その後、織田信長に仕えて高野山攻めの指揮を執ったとされるが、本能寺の変後の動向については明らかではない。 |
現 状城跡までは、みゆき台団地から貯水槽脇の斜面を登り、さらに痩せ尾根を進むと到達する。遺構は、造成が比較的粗い主曲輪を中心に、西側には虎口を経て帯曲輪が取り付いている。 また、主曲輪の東側には土塁を伴う、四つ折れの技巧的な虎口が残されている。 東側の虎口を出た先にも人工的に造成された平坦地があり、曲輪であった可能性が考えられる。 主曲輪の造成が比較的甘いことや、城域が小規模であることから、松山城は臨時的に築かれた陣城であり、天正10年(1582)の高野山攻めに際して築かれた可能性が考えられる。 |
写 真 |
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| 城に至る痩せ尾根 | 主曲輪 | |
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| 主曲輪 | 西側虎口(搦め手?) | |
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| 主曲輪土塁 | 東側土塁を伴う虎口 | |
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| 東側虎口 | 主曲輪土塁から東側虎口を見下ろす | |
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| 切岸 | 東側曲輪 | |